杉岡昭吾
杉岡昭吾
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プロフィール
杉岡昭吾
杉岡昭吾
SUGIOKA SHOGO
(1930~1993)
BIOGRAPHY
略年譜
| 1930 |
昭和5年4月18日高田郡吉田町常友に生まれる。 旧制広島二中・武蔵野美術学校西洋画科卒、同校在学中3年時第6回二紀展入選、 以後第45回展まで出品。 |
| 1970 |
昭和45年 二紀会「同人」に推挙される。 |
| 1972 |
昭和47年 二紀会広島支部創設、支部長就任、以後約20年間その任にあたる。 同年二紀巡回展を広島に誘致。 |
| 1980 |
昭和55年 二紀会「会員」に推挙される。 |
| 1984 |
昭和59年 3月「四季のアトリエ」春号に掲載。 |
| 1987 |
昭和62年 10月「美術の窓」10月号[作家と風土]に掲載。 11月 福屋美術画廊にて「風景画」展開催。 |
| 1991 |
平成3年 多年にわたり、二紀会広島支部発展に尽した功により、二紀会広島支部より感謝状を受ける。 二紀会への多年の功により、同会初の「二紀会功労賞」を受ける。 この間、広島県美展最高賞受賞、二紀選抜展賞、二紀会同人賞、二紀会会員展賞等多数受賞。 第6回二紀展初入選より入選31回。 |
| 1993 |
平成5年 1月9日 広島大学病院にて他界、享年62歳。 |
| 1994 |
平成6年 1月 県民文化センターにて遺作展開催。 |
PORTRAIT
人物像
杉岡昭吾(1930–1993)は、広島の高田郡吉田町に生まれ、戦争と原爆を生き抜いた洋画家であり、美術教師でした。広島が原爆で壊滅したあの日、旧制広島二中の3年生だった彼は、学徒動員中に被爆し、奇跡的に生きて帰り着きます。あの日の体験は語られることがありませんでしたが、彼の絵の深い色調や静かな構図には、その記憶がにじんでいるように思えます。
戦後、混乱の中で税務署に勤めながらも絵への情熱を捨てきれず、周囲の反対を押し切って武蔵野美術大学へ進学。卒業後は広島へ戻り、美術教師として子どもたちに絵を描く喜びを伝えながら、二紀会の画家としても活動しました。1972年には広島で初めて二紀展の巡回展を実現させるなど、地元の美術文化の発展にも尽力しています。
自宅には自ら設計した大きなアトリエを構え、仲間と語らい、家族を大切にしながら絵と向き合う日々。原爆を直接描くことはありませんでしたが、「なにくそ」と歯を食いしばって生き抜いた強さが、作品の中に静かに息づいています。
生前、「いつか素人画家の美術館をつくりたい」と夢見ていた杉岡。その思いは今、こうしてWEB作品集として形になりました。プロかどうかに関係なく、絵を愛し、表現する人たちを励ましたい——彼はそんな存在だったのだと思います。
「わしの人生に悔いはない」。
その言葉の通り、杉岡昭吾という一人の画家が、戦争に翻弄されながらも希望を描き続けた軌跡を、この作品集を通して感じていただければ嬉しいです。
広島県立広島第二中学校 二十二回生
横浜市原爆被災者の会/元事務局長
(浜友の会)
松本正
杉岡昭吾
杉岡昭吾(1930–1993)は、広島県高田郡吉田町(現・安芸高田市)に生まれ、戦争と原爆という極限の状況を生き抜いた洋画家であり、美術教育者です。人にはそれぞれ、その人だけの人生があります。それぞれがかけがえのないものであり、特に戦争という極限の状況を生き抜いた人々には、まさに「生き様」と呼ぶべき物語が刻まれているように思います。
広島は、世界で初めて原子爆弾の脅威にさらされた都市です。命を奪われた人々はもちろん、生き残った人々もまた、その後の人生を大きく狂わされました。焼け野原となった広島を前にして、人々は何を思ったのでしょうか。戦争を知らない世代には、想像することすら難しいのです。
それでも、今の広島の美しい街並みを眺めると、当時の人々が絶望の中にあっても、わずかな希望を見出し、未来への種をまいたのではないかと思わずにはいられません。経済だけでなく、スポーツや文化、芸術に希望を託した人々がいたからこそ、今の広島があるのだと感じます。
このWEB作品集に作品を収めた杉岡昭吾も、そんな一人でした。旧制広島二中の3年生だった彼は、1945年8月6日、宮島の対岸にあたる宮内付近で学徒動員中に被爆しました。爆心地からは距離があったため直接の火傷や怪我はなかったものの、広島市街地の壊滅的な状況を目の当たりにしながら、命からがら避けるようにして海側から歩いて広島駅へ向かいました。幸いにもその日、芸備線が奇跡的に動いており、夜12時頃には実家の吉田に帰り着くことができました。まさに九死に一生を得た瞬間でした。家族も遠く吉田の地から原爆の雲を目撃しており、広島に新しい爆弾が落ちたらしいという情報は伝わっていたようです。
旧制二中で同級生の松本正氏(横浜市原爆被災者の会元事務局長)が2024年に出版された「ピカで犠牲の声聞こゆ」(オフィスなかおか)によると8月6日のその日に奇跡的に動いていた芸備線で非難したこと、またその車中の地獄絵図の状況が書かれています。そのことは杉岡自身は生涯口外することはありませんでした。もしその日芸備線が動いていなかったらまた違ったことになっていたでしょう。
将来は東京藝術大学への進学を夢見ていた杉岡でしたが、原爆による混乱と家庭の事情からその道は閉ざされました。戦後の混乱期に地元の税務署で働きながらも、絵への情熱は失われることなく、吉田高校(旧吉田高等女学校)の美術教師から絵の手ほどきを受けるなど、創作活動を続けていました。「どうしてもお金の取り立てが性に合わなかった」と語り、税務署を辞めて武蔵野美術大学西洋画科へ進学するという大胆な決断を下します。
戦後間もない混乱期に、田舎の農家の長男が美術大学へ進むというのは、周囲から見れば常識外れの選択だったかもしれません。しかし、杉岡はその道を選びました。同郷の親友が早稲田大学でシナリオライターを目指していたことも影響したと言われています。親との葛藤もありましたが、原爆によって息子に過酷な体験をさせてしまったという負い目もあり、最終的には東京行きを許されたといいます。
大学卒業後、東京での就職の道もありましたが、杉岡は広島に戻り、江波中学校をはじめ中広中、清和中などで美術教師として働き始めます。教育者としての彼は、単に技術を教えるだけでなく、絵を描くことの喜びや表現することの意味を生徒たちに伝え続けました。並行して、学生時代に入選経験のある美術団体「二紀会」に作品を出品し、同人・会員として活動を続けます。
1972年には、杉岡が二紀会広島支部長として尽力し、広島で初めて「二紀広島巡回展」を開催しました。この展覧会は、広島の美術文化の裾野を広げる重要な機会となり、2025年の現在まで50年以上にわたり毎年継続されています。杉岡の長年にわたる貢献は高く評価され、1991年には二紀会より「功労賞」を受賞しました。これは、彼が広島の美術界に果たした役割の大きさを物語るものです。
広島市安佐南区に移り住んでからは、自宅に仲間の画家たちを招き、酒を酌み交わしながら絵談義に花を咲かせる日々を過ごしました。自ら設計した18畳のアトリエは、彼の創作の場であると同時に、家族との生活の中心でもありました。6畳の居室とダイニングキッチンを除けば、まさにアトリエに住んでいるような生活だったのです。絵描きとしての人生を貫きながらも、家庭を大切にし、子煩悩な父としての一面も持ち合わせていた杉岡の姿は、芸術家としてだけでなく、一人の人間としての魅力を物語っています。
杉岡の作品には、原爆を直接描いたものはありません。しかし、その独特の色調や質感、構図には、言葉では語り尽くせない被爆体験の記憶と、それを乗り越えようとする人間の強さが宿っているように感じられます。彼は、原爆によって人生が狂わされたにもかかわらず、「なにくそ!」という気持ちで歯を食いしばり、自分の道を切り開いていきました。その姿勢は、彼の絵の中に確かに息づいています。
杉岡は生前、「いつか素人画家の美術館をつくりたい」と語っていました。経済的な理由で実現には至りませんでしたが、時代は変わり、SNSという新しい可能性が生まれました。こうして杉岡昭吾の作品を多くの方に見ていただけることを、心から嬉しく思います。絵を描くことが好きで、プロでなくとも素晴らしい作品を生み出す人は世の中にたくさんいます。どの範疇からプロなのかという論はさておき、杉岡は、そんな人々の代表として、人生をかけて芸術の種をまき続けました。
「わしの人生に悔いはない」と言い残してこの世を去った杉岡昭吾の絵には、戦争に翻弄されながらも、歯を食いしばって生き抜いた一人の人間の魂が込められています。このWEB作品集が、昭和という激動の時代を生きた一人の画家の記録として、そして希望を描き続けた人間の証として、皆さまの心に届くことを願っています。
杉岡昭吾の人生は、広島の復興とともに歩んだ一人の画家の記録であり、戦争を乗り越え、希望を描き続けた人間の証です。その生き様は、今を生きる私たちに「どんな状況でも、あきらめずに前を向いて、自分のやりたいことをやる」ことの大切さを教えてくれます。そしてその教えは、彼の絵とともに、これからも語り継がれていくことでしょう。
広島県立広島第二中学校 二十二回生
横浜市原爆被災者の会/元事務局長
(浜友の会)
松本正